大洲のうかいは、岐阜県長良川、大分県三隈川と並び、日本三大鵜飼に数えられる。鵜飼漁法の歴史は古く、古事記や日本書紀にも記述が残る。古墳時代の出土品にも鵜飼を思わせるものがあり、日本の鵜飼の歴史は1,300年とも云われている。現代、私たちの目に触れる鵜飼は観光鵜飼が主だが、古来川と共に暮らす人々にとっては身近な慣習であったのだろう。
鵜は魚を丸呑みするため傷がつかず、脂がのった良い魚が捕れることが鵜飼漁法の強みとされた。そのため、鵜飼で捕れた鮎等は、古くから天皇、貴族、大名などの献上品として扱われてきた。鵜が人に懐きやすい鳥であったことも、漁法に活きていると考えられている。時折水辺などで鵜を見かけることがあるが、あれは野生で暮らす河鵜(カワウ)で、鵜飼で登場する鵜はすべて海鵜(ウミウ)と呼ばれる種。鵜飼の鵜は日頃、鳥屋(とや)で生活している。
篝火を炊いた鵜匠船と客船の屋形船が併走して川下りをする、国内でも珍しい「合わせうかい」という手法は、ここ大洲で生まれた。鵜が水飛沫をあげながら魚を捕る光景を間近で見ることができる。鵜匠は烏帽子に腰蓑姿をしており、巧みな手縄さばきは息を吞むほど見事である。
多くの鵜飼観光は、川の中央あたりを何艘もの鵜船がゆき、川岸近くに並ぶ屋形船から観覧するのが主流。しかし、大洲・肱川はそうして何艘も鵜船を並走させるには川幅が狭かった。そこで、頭を悩ませた当時の船頭や鵜匠によって考案されたのが、この合わせうかいである。鵜船も屋形船も、この合わせうかいのために、ひと回り小さく拵えている。屋形船は、現在十五艘。合わせうかいは、鵜飼にとって有利ではない肱川の川幅によって生まれた知恵なのだ。
合わせうかいは、鵜船と屋形船が非常に近い距離で並走する。手を伸ばせば鵜に届きそうな迫力に、観覧客は思わず船べりへ身を乗り出してしまうほど。この「近さ」がまさに醍醐味ではあるが、一方で鵜を操る鵜匠、鵜船と屋形船それぞれの船頭、さらには鵜に至るまで、非常に繊細な技術と“対話”が求められるものだ。船頭と鵜匠、鵜たちの練り上げられた対話が、阿吽の呼吸をつくり、この合わせうかいを成立させている。
川の流れは穏やかに見えて早い上に、うかいは夜。さらに、肱川はその名にあるように“湾曲する肘のように”曲りくねる。鮎が逃げないよう、すべて人の手で船を動かす。肱川を知り尽くした船頭の経験がなければ、接触せず離れすぎず、速すぎず遅すぎずの航行をするだけで至難の業。また、鵜匠は左右に並ぶ屋形船の観覧客に、等しくうかいの様子を届けるための手縄さばきは一層の業を求められる。
主役の鵜も、鵜匠の呼吸に合わせ、前後左右に自在に展開できなければならない。一度のうかいに出発する鵜は五羽だが、この五羽の仲が悪いと、水上での流動的な動きが上手くできないそう。日頃から鵜匠はそれぞれの鵜の性格を知り相性を知るため、鵜は相棒と思い、対話を怠らない。休暇中の鵜たちを尋ねても、傍らにはいつも鵜匠がいて、一羽一羽につけられた名前を呼びながら世話をしている。
「近さ」の醍醐味は、何も鵜との近さだけではない。観覧客のすぐそばにいる鵜匠や船頭との近さもぜひ楽しんでいただきたい。昔からこの近さに馴染んだ船頭や鵜匠たちは、観覧客のおもてなしもお手のもの。合わせうかいだから感じことができる“対話”を堪能していただきたい。
月夜に浮かぶ大洲城や臥龍山荘を眺める。屋形船では、涼風を楽しみながら、数々の郷土料理やお酒に舌鼓を打つ。大洲の夏の風物詩、うかい。一度、水郷大洲の夏を五感で味わってみてはいかがだろうか。愉しかったと、年に何度も訪れる方も珍しくない。此れを知ると、きっと大洲の地の息遣いを感じることができる。