大洲では、2016年から17年にかけて
城下町の町並みが一斉に
取り壊しや新築、改築などが進んだ。
そんな大洲の城下町では現在、
まちのアイデンティティを守るため
歴史的建造物の再生と活用を中心として
大洲のまちづくりに取り組んでいる。
大正期もしくは昭和元年(築97年以上)
志保町と本町通りに面する建物で建築年代は所有者より昭和元年頃と伝えられている。1階部分は店舗として利用され、昭和の時代には酒屋からタバコ販売、アイスクリーム販売と業態が変遷し、近所の子供たちが立ち寄る本町の入り口のお店だった。また1階部分には立派な箱階段なども残っており、さらに貯蔵空間として地下室なども存在した。2階には接客空間である床の間があるなど大洲の町家の伝統的な建築を知ることの出来る物件。
明治期(前面主屋:西側)と大正期(後面:東側)
今岡邸は、明治期(前面主屋:西側)と大正期(後面:東側)に分かれる上から見るとロの字型をした物件である。今岡製糸工場を創設した今岡梅治郎の邸宅とされる。今岡製糸工場は1893(明治26)年に開業しました。工場は、邸宅から東に向かって広大な敷地を有しており、現在は、邸宅のみが残ります。今岡製糸工場の生糸は幾多にわたり宮内省御用織物に使用され、1928(昭和3)年には昭和天皇即位式典御用生糸の拝命を受けました。また1953(昭和28)年には、伊勢神宮の式年遷宮の御用生糸を拝命、同じく20年後の御用生糸も拝命しました。中庭に、1本の梅の老木があり、1928(昭和3)年に昭和天皇即位式典御用生糸に選定された際、宮内省より贈られたものと伝えられます。また、主屋1階には、瓢箪の透かし彫りがある。臥龍山荘臥龍院「霞(か)月(げつ)の間」にある13代駒澤(こまざわ)利(り)斎(さい)の作品と同じデザインであり、今岡梅治郎が臥龍山荘の建築に何らかの影響を受けたものと考えられます。
明治前期
中町通りに面する内科から外科(形成外科)として利用されていた病院兼住居。中町通りは病院通りとも呼ばれ、藤本医院以外にも新田産婦人科、安達医院、城戸眼科などが同じ通りに林立していた。その中でも藤本医院は古く所有者より明治後期か大正期に先代が内科として設立し、その後入り婿が形成外科として20年前まで病院として運営していたと伝えられる。2階は病室となっており1階部分はまだ診療室や受付などが残されている。
江戸後期
中町通りに面する商家で、明治前期の建築と推定されている。1階部分は店舗として利用され、毛糸を扱う商店であったため、壁一面に小分けにされた棚が敷設されている。2階は接客空間である床の間をともなった和室であり、大洲の歴史的な町家の建築様式が見て取れる。
江戸後期
中町通りに面する商家で、昭和の時代にリノベーションがされているものの、躯体や小屋裏、梁などの重要な部分は江戸後期のまま残っている物件。大洲市の城下町である肱南エリアでも最古級の物件であり、同じ通りに面する村田邸は1852年(嘉永4年:築172年)に建築されていることが確認されているため、同年代の建物と推定される。
明治中期
本町通りの東端、横丁通りとの結節点に位置する木造3階建ての物件。文具店として明治から大正、昭和にかけて「文具と言えば高月」といわれるくらい、近隣の小中学生から利用されていたお店であった。構造は木造3階建てであるが3階部分は追加で造作した跡があり、もとは木造2階建ての物件だったことが伺える。
昭和前期
臥龍山荘を立てた河内寅次郎が入婿として入った城甲家の蔵。水害を避けるため石附の上に建てられた大型の蔵で、昭和に入り折箱製造の保管庫として利用されていた。