大洲城天守の解体から約100年、大洲市制50周年である2004年完成を目指して大洲城天守復元プロジェクトが動き始めました。大洲城天守を復元するにあたり、当時の担当者はある共通の想いを抱いてプロジェクトを立ち上げました。1つは復元した天守が将来の文化財となるよう、可能な限り本物を目指すこと。そしてもう1つは、天守復元の価値を市民と分かち合えるよう、市民参加型の事業にすることです。
大洲城天守が木造復元に踏み切れたのは、とある理由があります。それは木造で復元するための資料が豊富に残っていたということです。江戸期に作られた天守の内部構造の分かる木組みのひな型や天守解体前に撮影された大洲城の古写真、非常に精度の高い大洲城絵図など、復元するには十分なほど資料が残っていました。
また、天守の木造復元にあたっては、建築基準法も課題となっていました。この課題に対しては当時の関係者も頭を悩まし、設計に取り掛かるギリギリまで鉄筋コンクリートでの再建とするか、事業を遅らせるかの協議がされていました。そのような中、建築基準法第3条(建築基準法の適用除外)によって復元可能なことが判明し、大洲城天守の木造復元が法的に許可されました。
大洲城天守復元にあたっては大洲市民や出身者を中心に、多くの方に募金を頂いています。募金活動は目標額が5億円に対して、5億2千8百万円を達成。また、できるだけ大洲の木材を使用しようと募木も実施。大洲で育った木を使用することで耐久性が高まるとも考えられていました。その結果、直径40cm以上のヒノキとスギの木が577本集まり、地元の木材は来城者に触ってもらえるよう、来館者に近い箇所に使用されています。
大洲城復元工事は多くの時間と優れた技術が費やされました。石垣の形を古写真と同じにするべく、1つの石の加工に一日費やしたこともありました。また、日本全国の寺社仏閣を手掛けた経験を持つ富山県南砺市の宮大工を大洲に招聘し、地元大洲の大工と協力しながら作業を進めました。
そうして10年近い年月を経て、2004年9月に木造復元での大洲城天守が完成しました。大洲城の天守の復元は、まさに地元住民の想いと日本の建築術、資料研究の集大成と言えるのです。
大洲城の天守の見どころは何といっても木造復元であること。復元の際に天守ひな型を解析したところ、中心には「心柱(しんばしら)」が通っており、これを復元の際に幅33cmのヒノキの柱で再現しました。この心柱を中心に1階から2階にかけては吹き抜け構造になっており、迫力のある木組みを見ることができます。
また、大洲城天守は史実に基づき忠実に復元されていることから、大洲のお殿様が見ていた景色がそのまま見られるというのも大洲城天守の愉しみ方の1つです。
実は大洲城の天守には、ねずみとテントウムシが潜んでいます。これは大洲城天守復元の際に大工の遊び心で作られたものです。ねずみは「ねずみがいる舟は沈まない」という言葉から、縁起の良い動物としてねずみを配置し、大洲城の繁栄を願ったといいます。当時の大工は、天守に十二支すべての動物を配置したかったそうですが、ねずみを配置した段階で諦めたとのこと。テントウムシに関しても遊び心満載。大工が木の節を使って彫ったそうです。
大洲城は天守に連結した台所櫓と高欄櫓は解体を免れた現存の櫓です。いずれも国の重要文化財に指定されており、復元天守と現存の櫓のコントラストを愉しむことができます。
1857年の大地震で大破したのち、1859年に再建された台所櫓は、大洲城の櫓の中でも最大級の櫓です。その名の通り、籠城時には台所(調理場)として使用する想定で作られており、土間や煙出し用の窓もつけられています。現在では観覧者用の受付にもなっており、多くの土産物も販売しています。
高欄櫓は1857年の大地震によって大破し、その後1860年に再建された重要文化財の櫓です。2階に廻縁(まわりえん) と高欄(手すり)があり、城下町を一望できるようになっています。高欄櫓は大洲城全体の見栄えをよくする意図もあり、唐破風や石落としも装飾として用いられています。
大洲城は近くから見ても美しいですが、側を流れる肱川沿いから見るとまた違った見え方になります。以下の画像を見比べると分かるように、天守台から見ると1層にあたる外壁は真っ白ですが、肱川沿いから見ると1層にあたる部分が黒くなっているのが分かると思います。これは下見板張(したみいたばり)と呼ばれ、耐久性の向上だけでなく、見た目に華やかさをもたらしています。
大洲城は日本初の泊まれるお城としても有名です。”大洲城キャッスルステイ”は、夕刻になると法螺貝の音が大洲城に鳴り響き、当時のお殿様の入城シーンを再現した城主体験から始まります。その後は大洲が誇る伝統芸能や鉄砲隊による歓迎の祝砲などを鑑賞し、地元の食材をふんだんに使用したディナーに堪能します。夜になると誰もいない天守を貸し切り、ゆっくりと眠りにつくことができます。
宇都宮豊房が1331年頃に築いた地蔵ヶ岳城(じぞうがだけじょう)に始まると言われています。250年にわたる宇都宮氏の支配が終わりを告げると、近世初頭に大洲の地を治めた小早川隆景をはじめ、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治ら各大名たちの運営を経て城郭が整備されました。また、現在の大洲城の天守は脇坂安治によって築かれたと言われています。1617年には加藤貞泰が大洲に移り、以後13代にわたり加藤家が大洲を統治してきました。
19世紀後半、明治維新後の日本各地では、城を残すか廃城するかにの議論がなされていました。大洲城も次第に解体解体されはじめ、1888年には城天守の解体も行われました。その際、わずかに苧綿櫓、南隅櫓、台所櫓、高欄櫓のみが残されたのです。